当院のあゆみを写真を交えてご紹介します。
養子殺害事件で決意
明治19年、愛知育児院は熱田伝馬町の正覚寺境内から初めの一歩を踏み出しました。 生みの親は、森井清八、当時42歳。有松絞の紺屋(染物屋)の主人でした。森井の生家は、維新前後の混乱で、放浪する人たちがいやでも目につく東海道沿いにあり、清八の父、平九郎は、そうした赤貧の旅人や物乞いに食べ物や衣服を与え、無料で泊めさせるような人柄でした。そんな家庭で育った純粋な男の心を揺さぶる事件が明治15年に発生します。それは、養育料つきの赤ちゃんを金目当てでもらい受けた男が養育料だけ取って子どもを次々と殺してしまうという凄惨な事件でした。隣町で起きたこの事件が清八の心を奮い立たせ、この年から家業の一切を妻子に託し育児院設立のために奔走し始めたのです。 清八は、まず愛知、知多の両郡、名古屋の篤志家を次々と訪ね、協力を呼びかけます。明治17年には、大阪愛育社という育児院の存在を知り、直接大阪まで出かけて運営の仕方などを視察しました。しかし、当時の民間において、清八が手がけようとした事業はほとんど未開の分野であり、力のない庶民が計画することは無謀とも思える事業でした。
創業者 森井 清八
仏教会が資金バックアップ
清八はもともと信心深い仏教徒で、資金調達などの協力を各宗派に依頼しました。率先して呼びかけに応じたのが真宗大谷派です。同派は、真宗王国といわれる尾張の末寺に対して育児院設立の趣旨を説明し、恵まれない子どもを救うべく論達を出しました。本山の論達は、絶大な効果があり、その後、多数の寺と門徒がこの活動に参加しました。この動きに各宗派の寺院でも同調するものが増え、寄付金が集まり出したといいます。 当時の愛知県知事宛てに提出した育児院設立願に名を連ねた発起人は34人。その最後に清八の名がありますが、他はすべて僧職で宗派も様々。まさに超宗派の熱意が育児院設立への原動力となったのです。 このうちの1人、有松村の祇園寺住職・荒谷性顕は、清八のこよなき理解者であり、自らも明治38年から大正8年まで院長を務め、育児院約130年の土台を築いた人物です。
里親制度と実母養育に援助
愛知育児院の「最初の子」となったのは生後6ヶ月の女児。養育は、まだ牛乳が普及していなかったので、通勤の乳母を雇って行っていました。おそらく、子どもを産んで間もない近隣の女性であったと考えられ、記録には一日に数回足を運んで授乳したとあります。乳母による養育は、子どもが5歳になるまで続きました。 愛知育児院の児童数はその後、年を追って増加し、将来に備えて資金繰りや設備の拡大が急がれてもいました。 清八は、早くからそうした傾向を予見し、経費節減のために2人目の乳児から計3人を自宅で育てています。自分の妻や妹に子どもの面倒を頼み、乳母だけを通いで雇って人件費を浮かせたのです。同時に清八は、5歳以下の子の養育方法として里親制度を推進しました。家庭の実情によっては、実母を経済的に支援して手元で育てられるように計らいましたが、里親や実母による養育は発足当時からの計画でもありました。里親制度の実践は、無償の養育と、保育料や衣類、履物などの現物を支給しての養育の2本立てで進めています。実母がいる場合も、委託の形をとって保育料や現物を支給しました。そして、いずれの場合も監督者を置いて、常に子供の成長を見守るよう努めました。 こうして運営が軌道に乗ってからは、昭和の初めごろまで「在院保有」と「委託保育」の両面で行われるようになっていきました。のちの事業報告にも乳幼児は正常な家庭で行うようにと定められており、乳幼児期の子ども達にとって家庭養育がいかに大切であるかということが当時から重要視され、実践されていたのです。
「家庭で育てる」の理念貫く
愛知育児院は、南山の地に移転し、南山寮となった明治42年から、当時としては珍しく先進的な「小舎制」を採用していました。大部屋ではなく、まとまった小部屋で親代わりの保母と児童が生活を共にし、一般家庭に近い疑似家庭を組んでいました。実際、育児院が現在地に移転した時には、計画的に6棟の家族舎を建てています。この小舎制は現在の施設が建設されるまで約100年近く続き、新しくなった現在の南山寮もその小舎制を踏襲した作りになっています。 閉鎖的、管理的になりがちな施設を当時から「一般家庭ならどうするか」の視点をもって運営されており、それを見失わずにいたからこそ、約130年という歴史を築くことができたのではないでしょうか。そして現在もなお、愛知育児院には、創設当時からの精神が脈々と流れていることでしょう。
参考文献 中日新聞「風の子ら」
(昭和61年5月15日~同年11月30日)
明治19年(1886年) | 森井清八氏が仏教各宗派によびかけ、日本で8番目の児童救護施設として熱田伝馬町正覚寺内に愛知育児院を創設。県庁より許可も得、初代院長に六万隆見氏が就任。 |
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明治25年(1892年) | 中区矢場町白林寺内に移転。 |
明治37年(1904年) | 財団法人として許可され、名称を「愛知育児院」とする。荒谷性顕院長就任。 |
明治42年(1909年) | 現在地(鳳凰山新豊禅寺跡地)に移転し、愛知育児院南山寮と称す。 |
昭和21年(1946年) | 太平洋戦争で機能は麻痺するが、真宗大谷派が愛知育児院の中心的な支持母体となる。 |
昭和27年(1952年) | 財団法人から社会福祉法人に組織変更する。瀬邊信教理事長就任。 |
昭和36年(1961年) | 養護施設の公称を南山寮とし、社会福祉法人愛知育児院南山寮と改名する。 |
昭和44年(1969年) | 保育所「南山ルンビニー保育園」を開設。黒田芳明園長就任。 |
昭和61年(1986年) | 100周年記念式典を挙行。 |
平成11年(1999年) | 大規模改装工事を行い、南山寮は小舎制から中舎ユニット制に体制を変更する。 |
特別養護老人ホーム「南山の郷」の設立許可がおりる。 | |
平成12年(2000年) | 「南山の郷」内に居宅介護支援事業所を開設。 |
平成18年(2006年) | 南山ルンビニー保育園の園舎を増築。120周年記念式典を挙行。 |
平成24年(2012年) | 地域密着型高齢者施設「みなみやま」開設。 |
平成27年(2015年) | 幼保連携型認定こども園「南山ルンビニー園」を開設。 |
平成29年(2017年) | 地域小規模児童養護施設「みなみ」を開設。 |
令和4年(2022年) | 地域小規模児童養護施設「やまなみ」を開設。 |